「枕木」

環をのがれた獣――ロベルト・ムージル「愛の完成」読解

「愛の完成(Die Vollendung der Liebe)」という大仰な名前の小説がある。長大な未完の哲学的小説『特性のない男』で有名なロベルト・ムージル(1880-1942)の第二作品集『合一(Vereingungen)』(1911)の一編である。この『合一』は、前作の『寄宿生テル…

ハウリング

目を覚ますと熱が出ていた。口の中の水分が眠っている間にまるごと蒸発してしまったような、そんな熱と渇きだった。ここ数年来病気をしてこなかった娘の異常事態を予測しろと言うほうが無理な話かもしれないけれど(わたしは家族が代わりばんこにインフルエ…

いなくなってしまった声で

兄はかう言つた。「小説を、くだらないとは思はぬ。おれには、ただ少しまだるつこいだけである。たつた一行の眞實を言ひたいばかりに百頁の雰圍氣をこしらへてゐる。」私は言ひ憎さうに、考へ考へしながら答へた。「ほんたうに、言葉は短いほどよい。それだ…

歯医者

応募する歯科口腔外科医は、前歯と歯茎の境目がアーチ状に黒ずんでいた。助手の女が、ゴム製のチューブで先端が覆われた細長い金属製の器具を私の口にさし入れ、分泌され続ける唾液を絶え間なく取り除いていった。ぬるぬるした頬の裏側に吸い付くと、女は真…

失恋、あるいは詩の裏切りとして――尾崎翠「第七官界彷徨」を読む③

(②の続き) ――恋と模倣 はじめに「第七官界彷徨」の書誌を簡単にまとめてみる。現行のテキストは1931年6月発行の『新興芸術研究』(2輯)に掲載された全編であるが、それに先立ち、『文学党員』(1931年2-3月号)誌上で既にその七分の四ほどが前・中編…

失恋、あるいは詩の裏切りとして――尾崎翠「第七官界彷徨」を読む②

(①の続き) ――詩と失恋 これまでみてきたように、「第七官界彷徨」というテキストにおいては、語る〈私〉と語られる〈私〉の距離がはっきりと意識されていた。「よほど遠い過去」のことを婉曲表現で語る冒頭の一節に、それが如実に表れていることは既に確認…

失恋、あるいは詩の裏切りとして――尾崎翠「第七官界彷徨」を読む①

序にかえて、まずは本稿の成立過程を説明しておく。昨年の秋から冬にかけて、「春と修羅」では尾崎翠「第七官界彷徨」をテキストに指定し、都合三回にわたって座談会を実施した。各自の読みや感想を交わしてみると、予想されていた以上に意見の相違が生じた…

「枕木」を連絡する

男女両性を有する単語ならずとも、隠され、眠っていたもう一方の意味が、なにかをきっかけにして不意に姿をあらわす瞬間ほど怖ろしいものはない。 ――堀江敏幸「河岸忘日抄」 元々あった大きな集まりから、いくらかの人数が別の集落をつくった、その名前を「…