「枕木」を連絡する

 

男女両性を有する単語ならずとも、隠され、眠っていたもう一方の意味が、なにかをきっかけにして不意に姿をあらわす瞬間ほど怖ろしいものはない。

――堀江敏幸「河岸忘日抄」

 

 元々あった大きな集まりから、いくらかの人数が別の集落をつくった、その名前を「春と修羅」としたのは当然元の集まりもまた宮沢賢治に名前の由来を持っていたその対抗だったのだが……まとまりはなく、粒の歪な結集としか見えない私たちが、冗談めいた言葉で始まった集いをどうしてここまで持続してこられたのか、ということについてはまったく不思議でしかない。

 文学だけが楔として機能している、と思えば、文学も悪いものではないだろう。

 何かこのあたりで、一つのマイルストーンを、といって考えたこの冊子を「枕木」と名付けたのは、日の忙しさに気が滅入っていたときの、私個人の忘日への思いが大いに関係していることは確かだ。しかし、こじつけではなく――この言葉に、文学の何か粋のようなものを感じてならなかった。

 枕木とは、線路の下に敷くあの線路にかかる荷重を分散させる角材のほか、英語でいうところのスリーパー、つまり、時が来るまで眠り続けるスパイを意味する言葉である。

 

 連中は積極的に動いたりしない。恋愛して、結婚して、子どもだってつくる。指令があるかもしれないし、ないかもしれない。なければその国の人間として残りの人生を終える可能性さえ秘めたながいながい待機の末に、顔も名前も知らない連絡員からの、幾重にも保護の網を張られた間接的な合図を受けて目を覚ますまで、予測のたたない日々を過ごすんです。スリーパーたちは、ずっと仮面をかぶっている。しかもその仮面がやがて地の顔になる。

堀江敏幸『河岸忘日抄』)

 

 「枕木」の途方もないその姿勢に、文学の姿を重ねる。枕木は多重化されている。枕木の本質は、複数の「地の顔」を持っていることだ。たとえ本当はスパイでも、本当はそうではないという矛盾があり得る。枕木は複数の真実を含有する。

 私たちは、不遜ではあるが、連絡員になりたいのではないか。枕木本人が、スリーパーがもう忘れていた姿を、呼び起こしてみたい。自分たちの愛した人間の顔を、一つ一つと見てみたい。眠っているものを起こしてみたい。読みとは、そのような試みを指すのではないだろうか。

 そして文学も不意に、世界に、現実に、私たちに連絡をしてくる。その連絡を受け、私たちの眠っていた記憶が呼び戻される。

 この一冊も、誰かへの連絡となることができるだろうか。幾重にも保護の網を張り巡らされた、どこかへの小さな発信。