失恋、あるいは詩の裏切りとして――尾崎翠「第七官界彷徨」を読む②

 

(①の続き)

 

――詩と失恋

 

 これまでみてきたように、「第七官界彷徨」というテキストにおいては、語る〈私〉と語られる〈私〉の距離がはっきりと意識されていた。「よほど遠い過去」のことを婉曲表現で語る冒頭の一節に、それが如実に表れていることは既に確認済みだ。逆に言えば、語り手は過去との距離を自覚したうえで、語る行為によって過去と現在の隔絶をつなぎとめようとしたのだと言えるかもしれない。詩の心を交わすことでかつての〈私〉が無名詩人と(つかの間)結ばれたように、語りによって過去の自分をいまと結びつける試みは、ある意味では語り手の現在を映しだす行為であるとも言える。それはふりかえってみれば、あのときの体験があったからいまの私があるのだというような、自己を支える根拠を過去に見出すような行為とでもいおうか。以上のことは、あくまで仮説にすぎない。しかし、詩人になりたいと願う娘が、ひとりの詩人と運命的な出会いを果たすというアウトラインを想定するのであれば、そこで語られていたのが「詩」と「恋愛」についての記憶であることだけはたしかだろう。恋の宛先を詩人に定めたからには、われわれは第七官と詩について精査する必要がある。

 導入にあたり、まずは川崎による次の指摘をみていくことにしよう。

 

 「小野町子」が追い求める「第七官界」という観念と、彼女が書き残している詩のあいだには、どうしようもない懸隔がある。これはそういう物語である。町子は、遅筆で寡作だというばかりでなく、擬古的な文体による凡庸な恋の詩のようなものをノートに残すだけだ。読者は、「第七官界彷徨」という散文テキストの作者と、虚構の語り手でもありテキストのなかの詩人の卵でもある「小野町子」との落差を、見逃してはならない。

 (川崎賢子、前掲書、pp.367-368)

 

 前半は〈私〉が追求する「第七官界」の観念と実際の詩との落差についての、きわめて重要な指摘である。しかし後半の指摘については、語る〈私〉と語られる〈私〉の落差を見過ごしている点で、誤りであるといわざるをえない。むしろ次のように書いておくべきだろう――これは「第七官界彷徨」というテキストの虚構の語り手としての〈私〉と、テキストのなかで語られる〈私〉との落差であると。「第七官界彷徨」というテキストには、このふたつの落差が存在している。

 「第七官界」と詩の隔絶とは、理想の詩の境地と実際に書かれた詩との落差のことで、ようするに町子が書いている詩は彼女の理想からはほど遠いということだ。彼女が詩を書くとき、なにが起きているのか。実際に〈私〉が詩を書くときや、理想的な詩の境地が語られている場面を具体的に羅列してみる。なお、分かりやすいように、それぞれに番号をふって場面順に整理した。

 

私はひとつ、人間の第七官にひびくやうな詩を書いてやりませう。(中略)

 私の勉強の目的はこんな風であつた。しかしこの目的は、私がただぼんやりとさう考へただけのことで、その上に私は、人間の第七官といふものがどんな形のものかすこしも知らなかつたのである。それで私が詩を書くのには、まづ第七官といふものの定義をみつけなければならない次第であつた。これはなかなか迷ひの多い仕事で、骨の折れた仕事なので、私の詩のノオトは絶えず空白がちであつた。

(前掲書、pp.277-278)

② 

 こんな空想がちな研究は、人間の心理に対する私の限界をひろくしてくれ、そして私は思つた。こんな広々とした霧のかかつた心理界が第七官の世界といふものではないであらうか。それならば、私はもつともつと一助の勉強を勉強して、そして分裂心理学のやうにこみいつた、霧のかかつた詩を書かなければならないであらう。

 しかし私の詩集に私が書いてゐるのは、二つのありふれた恋の詩であつた。

(同前、p.292、下線引用者)

そして音楽と臭気とは私に思はせた。第七官といふのは、二つ以上の感覚がかさなつてよびおこすこの哀感ではないか。そして私は哀感をこめた詩をかいたのである。

(同前、p.293)

私はつひに自信のない思ひかたで考へた――失恋とはにがいものであらうか。にがいはてには、人間にいろんな勉強をさせるものであらうか。(中略)失恋とは、おお、こんな偉力を人間にはたらきかけるものであらうか。それならば(私は急に声をひそめた考へかたで考へをつづけた)三五郎が音楽家になるためには失恋しなければならないし、私が第七官の詩をかくにも失恋しなければならないであらう。そして私には、失恋といふものが一方ならず尊いものに思はれたのである。

(同前、p.325)

 

第七官といふのは、いま私の感じてゐるこの心理ではないであらうか。私は仰向いて空をながめてゐるのに、私の心理は俯向いて井戸をのぞいてゐる感じなのだ。

(同前、p.328)

 ⑥

そして私は、一つの漠然とした、偉きい知識を得たやうな気もちであつた。――私のさがしてゐる私の詩の境地は、このやうな、こまかい粉の世界ではなかつたのか。蘚の花と栗の中味とはおなじやうな黄色つぽい粉として、いま、ノオトの上にちらばつてゐる。そのそばにはピンセツトの尖があり、細い蘚の脚があり、そして電機のあかりを受けた香水の罎のかげは、一本の黄ろい光芒となつて綿棒の柄の方に伸びてゐる。

 けれど、私がノオトの上にみたこの一枚の静物画は、ぢき二助のために崩された。(中略)

 女中部屋で私は詩のノオトをだしてみた。私はいま二助のノオトの上にみた静物画のやうな詩を書きたいと思つたのである。しかし、私が書きかかつたのはごく哀感に富んだ恋の詩であつた――祖母がびなんかづらを送つてくれたのに、私にはもうかづらをつける髪もない。ヘヤアイロンをあててもらひながら頸にうける接吻は、ああ、秋風のやうに哀しい。そして私は未完の詩を破つてしまつた。

(同前、p.342-343、下線引用者)

私は柳氏の買つてくれたくびまきを女中部屋の釘にかけ、そして氏が好きであつた詩人のことを考へたり、私もまた屋根部屋に住んで風や煙の詩を書きたいと空想したりした。けれど私がノオトに書いたのは、われにくびまきをあたへし人は遥かなる旅路につけりといふやうな哀感のこもつた恋の詩であつた。

(同前、p.364-365、下線引用者)

 

 こうして並べてみると、そもそも「第七官」の定義じたい、はじめからろくに定まっていないどころか、二転三転していることがよく分かる。このなかで、〈私〉の詩が「第七官」界の境地にもっとも近づいているようにみえるのは③の場面だろう。しかし、「第七官」や理想の詩の定義が揺れているかぎり、そのときは意に叶う詩が書けたと思えても、また別の定義が持ち出されるときには、その詩はもはや彼女の理想から離れてしまっているのではないだろうか。ひとたび理想の詩を書いてしまった詩人が、また筆をとって詩を書く理由など存在しない。〈私〉の試みは、それが開始されたときから既に挫折するさだめにあった。してみれば、「第七官」の定義が定まらないことじたい必然であったと言えよう。

 したがってここで要求されるのは、「第七官」とはなにかを探ることではなく、むしろ詩の不可能性に目を向けることであるだろう。②、⑥、⑦の引用には、「しかし」や「けれど」の逆接によって、そのことがはっきりと表れていたはずだ。〈私〉の詩にかける想いを恋にたとえるなら、それは詩の裏切りによって失恋が運命づけられている恋であった。いや、そもそも詩を書くことじたいが失恋であったとさえいってよい。詩は常に〈私〉を裏切りつづける。

 とはいえ〈私〉の詩作の道程を辿れば、たしかにそこには進歩がみられるのも事実だ。「ありふれた恋の詩」(②)から「哀感をこめた詩」(③)へ、そして「哀感のこもつた恋の詩」(⑦)へと、要素だけで判断すれば〈私〉の詩は改善されているようにもみえる。その一方で、実作の場面においては、理想の詩と実際の詩の齟齬は解消されないばかりか、むしろ顕在化していた。理想の詩を書くための原動力になりうると考えられていた「失恋」の「偉力」(④)も、彼女が理想とはかけ離れた「失恋」の詩を書いているのであれば、実作の現場においてはかえって妨げになっているようにもみえる。裏返して問うなら、それでもなお彼女が失恋の詩を書いてしまうのはなぜか。

 「第七官」にひびく詩を書きたいという当初の願いを思いおこせば、それがモチーフの選択といったレベルの話でないことは明らかだろう。にもかかわらず、「静物画」(⑥)や「風や煙」(⑦)といったモチーフに関心をよせる〈私〉は、いくら哀感がこもっていようが「失恋」の詩には納得できない。詩の実物が提示されていない以上、われわれはこの矛盾を〈私〉の詩才の問題として退けるのではなく、テキストの次元で考えてみたい。つまり、これらを詩のモチーフとしてではなく、「第七官界彷徨」という小説のモチーフとしてとらえるということだ。

 あらためて〈私〉が理想とする詩の変遷を追ってみると、「第七官」の定義を探っていくうちに、〈私〉が理想とする詩の境地がはっきりと具体性を帯びてくるのが分かる。「こんな広々とした霧のかかつた心理界」(②)、「二つ以上の感覚がかさなつてよびおこすこの哀感」(③)、「私は仰向いて空をながめてゐる」のに「俯向いて井戸をのぞいてゐる」「この心理」(⑤)と、⑤までの定義が抽象的なそれにとどまっているのに対し、⑥と⑦では即物的な対象としてモチーフが記述されていた。だとすると、書くべき詩の輪郭がはっきりと見えてきたにもかかわらず、なぜ〈私〉は書けないのか。その理由は、端的に⑥の場面に表れていたように思われる。彼女がノートのうえに見た「細かい粉の世界」は、二助の介入によってすぐに崩されてしまっていた。そこではもはや微細な感覚は持続せず、ひとたび得たはずの「静物画」のコンポジションは失われてしまう。確固たる輪郭をもっているかのようにみえたモチーフが、実際にはひとたび掴んだかと思えばたちどころに霧散してしまうような儚いものであったと判明するとき、詩のモチーフは彼女の詩作のアレゴリーとして読むことが可能だろう。出会ったモチーフに裏切られることがいわば「失恋」なのだから、「風」や「煙」が捉えられないのと同様、彼女が「失恋の詩」を書くのもまた偶然ではない。彼女の恋の相手であり、「風や煙の詩」を書いていたという無名の詩人が、まさに「風」や「煙」のごとく彼女の前から姿を消してしまうのだから、それを偶然の一致で片づけるのは無理がある。

 このアレゴリーに従うなら、詩を書くことじたいが失恋であって、詩人との恋もまた失恋に終わるのが道理であろう。しかしながら、彼女が「よほど遠い過去」の「ひとつの恋」を特権的に語るとき、それは本当に終わってしまった恋なのだろうか。詩人への恋、詩との恋愛は過ぎ去りし日の思い出にすぎないのだろうか。次項では、尾崎自身が語っていた改稿の企図とともに、恋愛の可能性について検討していく。

 

 

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