歯医者

 

 応募する歯科口腔外科医は、前歯と歯茎の境目がアーチ状に黒ずんでいた。助手の女が、ゴム製のチューブで先端が覆われた細長い金属製の器具を私の口にさし入れ、分泌され続ける唾液を絶え間なく取り除いていった。ぬるぬるした頬の裏側に吸い付くと、女は真空状態になった管を力任せに引き剥がした。顔中にファンデーションを均等に引き延ばして、睫毛の際を隙間なくアイラインで埋めている。受付の女も同じ顔をしていた。社内規定だ、とすぐに合点がいった。今日からメイクの練習をしなければならない。アイシャドウも、今は地味な色のものしかないから、買いなおさなくてはならないだろう。荷物籠に投げ出された鞄の中には、提出する履歴書が入っている。さえない顔色の証明写真を貼り付けてあった。面接を受けに来たのですが、と受付で言い損ねたまま、可動式のぶあつい椅子に横たわっている。そういえば、このところ右の奥歯が痛いので、歯医者に行こうと思っていたところなのだった。言われるがままにレントゲンを撮って戻ると、初老の歯科医は白く翳った顎の骨の一隅を指差し、親知らずの向きが真横であると診断を下した。自力では縦に戻らないという。親知らずにはよくあることです。生えている時期と、休む時期を繰り返しながら、次第次第に伸びてゆきます。既に生えている前の方の歯を圧迫していって、歯列を乱してしまうから、早めに除いた方が良いでしょう。医者は穏やかにそう言うと、マスクを引き上げて黒ずんだ歯を仕舞った。会計時に渡された領収書には、初診料と、思いのほか高いレントゲン代が、ざらついた文字で印字されていた。来週の水曜日に親知らずを抜くことになった。清潔な自動ドアには院の名前が緑色でレタリングしてあった。歯科助手募集。ワードか何かで作ったらしい、安っぽいデザインの貼り紙が、ガラス戸に直接セロハンテープで四隅を止められていた。未経験歓迎。資格不要。歯医者は駅前の小さなショッピングモールの中にあった。帰りしな、一階のスーパーに併設されたパン屋で昼食を買った。イートインスペースを覗くと、ちりちりした白髪の老女が、静脈と同じ色の台拭きに手を添えて舟を漕いでいた。スペースの奥に鎮座する自動販売機には、しゃれたカップに注がれた飲み物のイメージ写真が、いくつもパネルにはめ込まれていた。コーヒーばかりだった。ボタンを押すと、重たげな自販機の中で、重ねられた紙コップが一枚だけ切り離される音がして、低い振動音と共に液体の注がれる気配が続いた。取り出したコーヒーは黒々としていた。細かな気泡がわずかに表面で渦巻いていた。ブラックのボタンを押していたらしかった。クリームも砂糖もたっぷり入っているものが好きなのに、久しぶりで、選ぶのをすっかり忘れていた。先客からはやや離れた席を選び、椅子を引くと、床と擦れて耳障りな音が立った。つられるようにして、揺らいでいた老女の首もがくんと落ちた。衝撃で目を覚ましたのか、不思議そうにあたりを見回して、大きな口を開けてあくびをした。歯がなかった。
 ドラッグストアで歯磨き粉と、マウスウォッシュと、いくつかの歯ブラシを買った。歯磨きの仕方が悪いので、歯石がたまってしまっていると注意を受けていた。店員に院の名前を告げて、領収書を切った。レジの女は、名札の横に研修中のバッチをつけていた。慣れない手つきで差し出された領収書には印が捺されていなかったが、気づかないふりをして受け取った。ちょうど一三〇〇円になった。丸々と太ったゼロを書く女だった。乾いた皮膚に薄い化粧を載せて、口の周りに産毛が残っていた。サッカー台の側に貼られたアルバイト募集のチラシには、シフト時間ごとの時給が提示されていた。朝と夜は時給が高くなる。高校生に限っては、どの時間帯でも一定して最低賃金のままらしい。まだ高校生だったのかもしれない。ひとつに結んだ髪は黒く軋んでいた。
 高校に上がってから歯の矯正をやめてしまった。小学校の三年生から続けていた。ピアノ教室に行く代わりに、月に二回、母の運転する車に乗って通った。手術をしたことまである。犬歯が前歯に向かって生えているので、軌道を正すために歯茎の部分を切り開いて、まだ肉の中にいる歯に金属の部品を取り付けなければならなかった。局所麻酔で済ませたが、手術は半日かかった。私の歯茎には穴があき、犬歯を導くために、剥き出された歯と乳歯を短いゴムで繋いだ。歯は一度生え始めると、もう向きを変えることはない。私が治療を脱したのは、口中の器具がすべて取り払われた隙だった。次の治療で別の金具を入れるはずだった。長年通った甲斐あって、私の歯列はすっかり整っているように見えた。けれどまだ完全には固まりきってはいなかった。次の器具は歯を固定するためのものだった。来週、と指定された予約日に、私は行かなかった。美しい歯列は脆いまま残され、知らぬ間に活動を開始した親知らずからの圧迫にはひとたまりもなかった。前歯は毎日少しずつ折重なり続けている。窮屈そうに身をよじりながら、伸びては止まる奥歯の奥に場所を譲り続けている。
 深夜、歯が軋む感触で目覚めると、洗面所へ立って、冷たい水で口をゆすいだ。矯正器具をつけていたころ、端々の突起が頬の裏側の肉を抉り、同じ場所に何度も口内炎ができた。口が渇く夜は、どうしてか古傷が疼いた。上顎にそって、アーチ状に針金状の器具を固定したときの名残で、上顎のふちも同様にむず痒かった。針金は日を増すごとに肉に食い込んで、歯科医が検分のために一旦取り外した隙をみて舌を這わせると、深く溝ができていたのをよく覚えている。口中にもやもやと渦巻く不快の元が、せり上がってくる親知らずなのか、古傷の名残なのかわからなくなる。鏡へ向かって口を広げ、大きく歯を剥き出すと、ぱき、と軽い音が鳴り、前歯のあたりに引き攣れる感触があった。今、動いた。親知らずはまだ生え続けている。水曜日に抜いてしまったあとでも、歪んでしまった前歯は元には戻らないだろう。買ってからそのまま洗面台に置いてあったマウスウォッシュの封を開け、口に含んだ。パッケージの裏の説明書には、使用後はしばらく口をゆすがずにいてください、とあったが、薬剤の強烈な清涼感は、気づかぬうちにできた細かな傷に沁み入り、二秒と耐え切れないまま水を含んだ。目は完全に覚めてしまっていた。寝なければ、と思うが、何のために、と思い直す。今、規則正しい生活を私に促すものは、倫理的規範のほかにはなにもなかった。外出用の鞄は履歴書を入れたまま、玄関に放置してもう一週間になろうとしている。明日の用意を整えるために、鞄の底をひっくり返すと、拙い字で書かれた領収書がしわくちゃになって出てきた。履歴書の入った封筒に、小さく折りたたんで入れた。
 歯をよく磨いて行くと、今日だけ慌てて磨いたんでしょう、すぐにわかるよ、と、よく叱られた。横で聞いていた母はそのたびに気まずそうに肩を竦め、歯医者ののち二三日は、ブラシの毛束を噛んでばかりの私にうるさく小言を言った。けれど教育の甲斐なく、不精な習慣は大人になってもただされることはなかった。水曜日の朝にだけ、特に念入りに歯を磨いた。親知らずを抜くことを、まだ誰にも知らせていない。場合によっては顔が腫れ上がるという。仕事に差し障りが出て大変だったと、誰かがfacebookで言うのを聞いた。腕のいい歯医者ならそれほどひどい事態にはならないらしいが、あの歯科医はどうだろう。仕事のできる上司は苦手だ。領収書も切れなかった。いつも相手を戸惑わせた。一度で理解させるのが難しい社名だった。漢字は、と聞かれることがあった。カタカナです、と答えて、何度も社名を復唱した。細くきれいなゼロが姿勢よく整列していた。社名は少し違っていた。こんなことでは困る、と上司の男は言った。いつも言っていた。男の書くゼロは奥歯の形をしていた。いびつなハート型にも近かったが、ホワイトボードにいくつも並んだゼロは、隙間のあいた男の歯列を連想させた。男の描いた歯の根は溶けてしまっていて、二股に根を張っていない。そういえば、カフェインが苦手だと言って、仕事中でもコーラばかり飲んでいた。コーラは骨によくないと、母は真面目に信じていた。歳を取るころには、つるりとした根から自然と歯茎が剥離して、ぽろぽろと歯が零れていってしまうだろう。領収書の上に並べて、上顎から抜けたものは軒下に、下顎から抜けたものは屋根に……。
 これも母から聞いたことだ。
 横向きに生えているからか、親知らずは歯茎から露出していなかった。歯を磨いた後に、つるつるした歯茎の表面を指でこすると、確かに下に硬いものが埋まっていた。自動ドアには、安っぽい求人ビラがまだ貼ってあった。セロハンテープの端がそろそろ白く汚れて見えた。受付の女に、予約していた者です、と告げ、履歴書の入った封筒を渡した。怪訝な顔になった女が履歴書を引っ張り出すと、しわくちゃになった領収書が一緒に転がり出た。後ろでは、待合用のソファーに座って、くたびれた様子のお母さんが首をこっくりと揺らめかせていた。診療室の方からは子供の泣き声が聞こえた。手術のときに泣かなかった。大学病院のロビーで待っていた母の方が、よほど憔悴しきった顔をしていた。仕事を辞めたと告げた時も、泣いていたのは母ばかりだった。母の書くゼロの字は丸々と大きくて、いつでも斜め四十五度に傾いていた。お小遣い帳は母がつけていた。自分で書くように言い渡されて、最初の一月は事細かに記したのが、次の月から書かなくなった。
 念のためお調べしますね、と、受付の女が奥へと消えた途端、また前歯がみしりと軋んだ。わずかな貯金を切り崩して生活しているのだから、親知らずを抜くためのお金を出す余裕があろうはずもない。
 働く場所を逃げ出して、昼食を摂ることにした。歯の軋みを片手で抑えながら、また、無心の電話を掛けねばならない。パンを買う前にイートインスペースを覗くと、例の老婆が一人で寝こけていた。あくびをしたようだった。ちりちりと渦巻く白髪が、少し前後にそよぐのが見えた。