いなくなってしまった声で

 

 兄はかう言つた。「小説を、くだらないとは思はぬ。おれには、ただ少しまだるつこいだけである。たつた一行の眞實を言ひたいばかりに百頁の雰圍氣をこしらへてゐる。」私は言ひ憎さうに、考へ考へしながら答へた。「ほんたうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば。」

――太宰治「葉」

 

 川の流れが、止まっている。たくさんの生徒が代わる代わる話しかけてきている間も、それが動き出す素振りはつゆもなく、ただその場で飛沫を上げ白んでいるのだ。私たちはもうそれに見慣れてしまっているが、それが気になって、記憶の中に声はない。

 学校、という場所には、様々な性質の生徒がいる。見た目に優れる生徒、愛嬌のある生徒、積極性はないが何だか気になる生徒、こちらに敵意を向けている生徒……教壇に立ち、一度教師の立場になると、席に座るとりどりの想いの奔流の、その勝手気ままに熱し冷めていく様子に唖然とすることがある。もちろんそれは数ヶ月以上の時を経て、あとから思い返したときの感情だ。嫌いという気持ちも好きという気持ちも、彼ら、彼女らの中から一月も持たず消えていくのに、その刹那すら、うら若い生徒たちにとってはかけがえのないものなのだった。

 人間として原始的とも感じる溌剌とした生活を、こうやって描写するしか私にはできない。それはきっとずっと、ずっと、私が幼い「僕」だったころからのことなのかもしれなかった。

 いつまで経っても、きっと死んでからも、こうやって文字にするしか慮る手段がない。

 

 高橋弘希について文章を書こうと思い、改めて「短冊流し」を読んだ。高橋弘希の書いているものは常に徹底して、絵画的な刹那を描いている。瞬間の持つ際どさ。改めて実感するのは、彼が多量の時間(あるいは、文章を)用いて、点を描こうとしているからだ。高橋弘希の小説は、奇跡的な点は、線分の中の一点としてしか見いだせないという逆説を証明する。

 線――――という言葉は、私に即座に『指の骨』を喚起する。「不自然に」鮮やかすぎる自然の中で繰り広げられる(どこか飄々とした)素朴な死を描いた、この作家のデビュー作だ。南方の島を描くのに、執拗に描写される色彩と影への言及に、ここであまり文章を割くことはやめておこう。死体に群がるハゲタカのように倒れゆく死体とあざとく重なりその周囲を不気味に旋回する影は、一方で細密な描写を避ける原色の鮮明すぎる色彩描写に対しており、冒頭からこの作品と作家の魅力を示してあまりあるものだ。その上で、死に溢れる南方の島の中で半死半生の野戦病院を後目に、そこで生活をしている先住民カナカが遊ぶ「色オニ」と「影踏み」は、この作家を信頼する魅力の一端を示すに過ぎない。

 それよりも、とにかく「線」だろう。戦地で友の「指の骨」を頼りにする「私」の心が震えるとき、心の中の線も震える。その線はどこかの空に浮かぶ風鈴に繋がっているのだと、作中で明かされていくのだが、そもそも心の中の線を意識する以前から、「私」は線に対して注意深さを見せている。

 

視界の一番遠い場所、輝く海原の途切れる所には、端から端まで水平線が伸びている。海原と碧空を区切るための、細長い線。その細長い線が僅かに丸みを帯びているから、輸送船が地球の側面に浮いているのだと分かる。

(『指の骨』)

  

 地平線、水平線、山の稜線。あらゆる物は線によって縁取られている。「私」にとって線は、遠く触れられないものの輪郭だ。線というモチーフが、遠い風鈴のイメージに引きずられてきたものと見ることもできるが、小説の、線条性を信じ、逆の論理を導くことも出来るのではないだろうか。累積されてゆく線のイメージが、いつしか自らの中で伸びてゆく。あたかも正体不明の線の答え合わせのように現れる風鈴のイメージは、作品の経過に素直に従えば、伸びてゆく線の先にふと現れる。風鈴の線があったからこそ「私」の目は偏執的に線を捉えていたのかもしれないし、また逆であるかもしれない。

 こうなると、主人公が南方の「前線」へと送られたのも、偶然ではなくなってくるだろう。

 完成された小説はしばしば相反する読みを含有する。どちらの読みも否定されるべきではない。複数の読みを信じることが豊かさじゃないか。矛盾するようで、それらは互いに手を伸ばし合って小説でしかあり得ない奇跡的な緊密を結んでいるのだと、私は信じる。

 

 記憶の中の風景は、連続的でないことが多い。

 人間の具体的な体験の例証に小説を引き合いに出すのは好まないが、それでも人間の記憶と印象について、国木田独歩「忘れ得ぬ人々」は鋭いと感じてしまう。柄谷行人が『日本近代文学の起源』において、「風景の発見」を論じたことで一躍有名になったこの作品を、鮮烈な体験として私は記憶している。

 教師になる気もさらさらないのに、漠然とした将来への不安を表すように不安定に教育実習へ向かう。ふらふらした足取りと、見習いだとしても教師、という大人の姿との二重映しの自分の姿は、実際に自分と生徒の視線に晒される自分にしか見えていない。他人の記憶している不安も体験も、辛うじて類似した一点の、その頼りない類似だけを手がかりにして語られる危うい共感だ。が、私の進んできた固有の線分とは違う。似たような人生の一点をスライドして語ることなんて、出来はしないのに。

 それでも「忘れ得ぬ人々」を、連想せずにはいられない。見た目に優れる生徒、愛嬌のある生徒……様々な生徒がいたけれど、私が唯一覚えているのは一瞬の風景に過ぎない。昼休みに広いラウンジをのびのびと使い、催事に向けての絵を描く少女の姿。描いている巨大な絵は身体の何倍もの大きさで、当然端々から仕上げていくことしかできない。いつも全体のバランスが分からず紙面を上手に使えない私には想像もできない感覚で、彼女は紙面を埋めていくつもりらしかった。「あらかじめ定められた」仏像を木から掘り出すことを志す仏師のような仕事の、手つきだけが記憶の中でなめらかに運動する。

 この絵にも、記憶が書き込まれることになる。

―――最高――1組――友情 ――優勝――絆――絶対また会おうね――――…………

 

 言葉が紙に書き込まれるとき、そこには絶対に何か思惑がある。偶然文字は書かれない。いや……逆かもしれない。文字の形を取れば、絶対にそこに切なさが生まれる。これだって生まれる。ある一瞬の気持ちをつなぎとめようとする足掻き。言葉とは常に過ぎ去ってしまった結果としてしか現れない。これだってそうだ。いくら現在形のふりをしても、ここにあるのは既に書かれた言葉なのだ。だから、死者を、ある一瞬を辿り直すためには言葉を渡らなければならない。

 私だって死んでいる。

 あるいはまだ生まれていない。

 未だ存在しないものを指向する「願い」も、不在を指向する点ではどうしようもなく、切ない。悲しくなる。その願いだっていつか、あるいはもう過去形で語られた。

 『朝顔の日』は高橋弘希の2016年春時点での最高傑作だろうが、それは『指の骨』で主人公が死の間際に自分の見てきた戦場と約束を、「死の直前に、はっと正気を取り戻すことがある」その明晰さによって想起した色調鮮やかすぎる光景を超えた、ラストシーンの美しい色彩の透写だけが理由ではない。『朝顔の日』には、今現在言語を運用して過去を書こうとする試みに由来する、『指の骨』には見られなかった必要に求められた記述・文体上の問題がある。ここに高橋弘希の、作家としての誠実さを見出すからこそ、『朝顔の日』は限りなく清潔なのだ。

 『朝顔の日』では、「書かれた言葉」が重要な意味を持つ。妻のスケッチブックはもとより、それ以外にも作中には多くの書かれた文字が登場する。「健?なる身體に健全なる精神が宿る」といった貼り紙、「三〇七號」といった表札……。地の文ではそれぞれ、新漢字で表記されるそれらが、カギカッコを用い性格に旧漢字で作中に引用されてくるその歪み。『朝顔の日』の一番の読みどころは間違いなくそこにあるだろう。そうでなければ清心会病院一号棟玄関にある石碑の内容や、「レストラアン桃源郷」などの描写は、作中で意味を持たなくなる。

 

これはリンゲルか何かですか、凛太が尋ねると、医師は注射針をすっと引き抜いて云う。

「希釈したTB菌ですな。」

(『朝顔の日』)

 

「コンビーフでも食べるか?」

眞田は倒木の先端から、急にこちらへ振り向いて言った。

「コンビーフなど、どこにある」

(『指の骨』)

 

 『指の骨』とは、書くものが異なれば文体も異なる。「言う」「云う」の漢字表記の違いから、カギカッコ内の句点の有無。これらは雰囲気作りでも何でもない。『朝顔の日』は太平洋戦争直前から開戦までを描き、『指の骨』は戦時中を描いており、そこに時間的な差異はほとんどないからだ。これはひとえに『朝顔の日』とは当時を今の言葉で描くという事態の持つ齟齬それ自体を一つの主題として選び、失われた妻の、最も美しかった瞬間をその言語と時空の歪みを超えて、純粋なものとして描こうとしているのではないだろうか。

 言葉が現実を再現させられるのならば、遠くの記憶だってここに呼び戻すことが出来る。けれども、現実はそうではない。正確に現実を文字に反映させることはできないし、そうやって呼び戻されたものは必ず独自の現在を生きるしかない、現在形のものとなる。その時代の言葉を用いたってそうだ、ましてや現在の表記では……。どうしたって新しくなってしまう。

 土が新しくては、古代の陶器はつくれない。

 『朝顔の日』は決して歴史小説ではない。当時存在しなかった飲用紙コップが登場してしまう点が作品の瑕疵であるという言説に、驚きを隠せない……私たちの前に現前している、当時を再現しようと必死になった新しい材料たち、新しい言葉たちはいったいどう説明するのだろうか。

 

 それから。それからも、高橋弘希は「死の直前に、はっと正気を取り戻す」、神々しいあの刹那を求め続けている。

 高橋弘希の小説を読んでいると、小説作品に宿る文章の声は、生と死のあわいに浮かぶような気がしてくる。願いや祈りも、走馬灯も、本質的には変わらない。言葉は不在を指向できる。そこに強い想いがあったことを、その言葉の存在だけで、確かに証明できる。そうしなければ見えなくなってしまうのだ。

 

 * * *

 

 私に話しかけてくる生徒たちはもういない。きゃあきゃあと騒ぐ、楽しそうな声を残してみんなどこかへ行ってしまった。

 川の流れが止まっている。けれど川の姿なんて本当はどこにも見えないのだ。青々とした海のような水の色、空気を豊富に含んだ飛沫の白色。そこを色とりどりの短冊が流れてゆき、今ではいなくなってしまった私の分まで、私のことを描写している。