ハウリング

 

 目を覚ますと熱が出ていた。口の中の水分が眠っている間にまるごと蒸発してしまったような、そんな熱と渇きだった。ここ数年来病気をしてこなかった娘の異常事態を予測しろと言うほうが無理な話かもしれないけれど(わたしは家族が代わりばんこにインフルエンザに罹った時も予防注射をせずにただ一人生き延びるほどには健康だった――田舎の祖母に言わせるとわたしの家は毎朝ヨーグルトを食べるのが身体に良いのだということらしい、それでもわたし以外の三人は悪い流行に敏感だったのだからやはりわたしだけが特別強いのだと思う)、それができなかった母は急に仕事を休むわけにもいかず、妹のハル子は部活の練習(新体操!)で早くから学校に出かけているからそれがなんとも心細いし退屈だ。自室の丸いシーリングライトの明かりはつけないままで、風邪をひいた時は妙にくっきりと見えてしまうその輪郭を視線でなぞっているとまた眩暈がした。

 目が覚めた時から喉も目の前もぐるぐるしていたから食事もろくに摂れなかったうえにお粥が嫌いなので、コンビニで買い置きしておいたパンを試しに食べてみたものの詰まっているはずの鼻の内側と言ってよいのかよくわからない部分に小麦の臭いばかりが染みついてとても食べられたものではないと訴えるわたしにそれなら果物だけでもと母が持ってきたバナナは、ここでなぜバナナなのかといえばわたしがヨーグルトをあまり好きではないからなのだが、手元が覚束ないからかその皮を剥くのが上手くいかずに先端を少し潰してしまった。ぐにゃぐにゃと歪んだそれは一本の線をなぞるように綺麗に裂けていき普段なら中身に沿って縦に開くところを両手の親指と人差し指で横に開いて抜いた、この手触りからして果物の王様にみずみずしさをまったく感じられなくて渇いていた。口に入れて噛むとかろうじて感じることができる粘着質の甘さは今の自分の体内に異物を入れるということへの不快感を少し和らげるだけのものに過ぎなかった。不快といえば今日に限って、と、わたしにわたしが女であることを心底嫌にさせていたそれは精神の問題――あるいは性役割の問題といったほうがより分かりやすくなるかもしれない――ではなくて単純に肉体の問題で、女の子らしい服やアクセサリーとは無縁のわたしの身体もどうしても女なのだということをこんな日は実感せざるを得ない、かと言ってトイレに行くのに身体を動かすのはだるい、ので、枕元に母が置き放したままの白い救急箱から清潔な脱脂綿を探し当ててあてがいひとまずはやり過ごすことにしてマスクをかけた。中は異様な臭いがこもっているけれど、それが本当に自分から発せられているものなのかがよくわからない。吐く息が見えない煙になってマスクを通り抜け、そのまま上昇し下の睫毛をくすぐり目尻を潤していく心地良さからわたしは呼吸を繰り返してはそのたび目を細めていると次第に蒸れてきてひきちぎるように科学繊維をむしり取る。口の周りをひんやりとさせるこの感じはなんだか湯冷めをするときの感覚に似ていてあまり好きではない。

 ベッドから机の上を眺めると、読みさしにしてあるヘンリー・ミラーやD・H・ロレンスが何冊か積んである横に、ジブリのDVDが散らばっている。わたしは「ハウルの動く城」が好きで、妹は「魔女の宅急便」が大好きだったから小さい頃は真っ赤な折り紙で作ったリボンを頭に乗せてごっこ遊びをした。よく似合う赤いリボンに包まれてくるくると回る妹の演技を思い出すと寂しくなってハル子の、家にいないことはわかっているのにその名前を呼んでみたくなる。年子のわたしとハル子はいつも同じ時間に家を出て恋人のように手を繋ぎ同じ道を歩き同じ角を左折し同じ踏切を渡り同じ駐在に挨拶し同じ横断歩道を渡り同じように左折し同じように直進し同じ所で躓き同じ銀行のガラスで前髪を整え同じブロックを踏み同じ電柱を軸に一回転し同じ石を交互に蹴り同じように左折し同じカラスを同じように避け同じパン屋の前で立ち止まり同じ豆腐屋のおじさんに挨拶し同じように左折し同じように直進し同じ家の前を通り同じ駐在に挨拶しそれがさっきと同じ駐在だと同じように気づき同じタイミングで同じような顔で時計を見て同じように焦り二人揃って信号無視をし同じフォーム同じ歩幅同じ速度で走り同じ学校に向かう。わたしが熱でも出さない限りそのバランスは崩れない。

 妹が生まれた時から両親はわたしをお姉ちゃんと呼ぶようになってそれでも妹は妹ちゃんではなくハル子と呼ばれるしわたしもそう呼ぶ。そこに父が加わった四人の中で、例えばわたしは母と父にとって「お姉ちゃん」ではなくて娘で、母にとって父は「お父さん」ではなく夫、父にとって母は「お母さん」ではなく妻だ。だから家族の中での呼称は妹が中心になって決められているということになるわけで、その中で本当の名前を口にされるのはハル子だけだ。他の三人はハル子を中心とした相関図の中の役職名で呼ばれる、だからといってわたしが特に不満を感じるわけでもない。

 妹の名前や言葉や痰を出そうと深く息を吸い込んでみると胸の奥が締め付けられるようにひゅううと苦しくなって出るのは空咳ばかりで、それは肺から喉を経由してきた二酸化炭素を口から放出しているというよりは鼻から吸い込んだ空気がそのまま口の中に送り込まれてただ押し出されたものをまた吸っているというような感じ。断面図にして見れば口と鼻だけを経由した空気の矢印が円を描いているだろう。咳をするたび喉の奥が呼応するようにきゃんきゃんと甲高い音を立てるのだからどうしたものか、わたしは犬だったのかしらと思ってしまう。枕元のスポーツ・ドリンクを取る時、一口かじって置いたままにした例のパンが気になった。自分の歯型を見ていると不快で吐き出しそうになるので、熱冷ましシートをしゃぶっているような気分にさせるからあまり好きではないこの液体を今はとにかく流し込んで、口をさっぱりさせなければならない――もちろんわたしは熱冷ましシートを口に含んだことすらない。

 身体を起こし、唇をペットボトルの飲み口に押しつけて流し込む。全ては飲み干さないで口の中に少しだけ残った水分を唇まで慎重に運びながら表面を潤そうとするとこぼれて顎のあたりまで一筋の流れができたので右手の甲を右から左へと滑らせて拭う。そのままマスクをかけるのに左耳に触ると熱を帯びていて、耳朶を内側に折り畳んで外耳道の入り口に蓋をしてみても平常時に感じられる冷たさがなかった。だが右耳を同じように畳んでみるとそれがあって猶のこと気持ち悪かった。ペットボトルを放り出して柔らかな枕に倒れこむとまた眩暈がした。隠れた口をアルファベットのOの形に開いて息を吐いてみると、スポーツ・ドリンクの後味と内側の科学物質が混ざり合ったような気がしてそれが獣臭いと感じた。あるいは男臭いのだろうか、体調を崩してベッドで一人ぼっちになった時は昔からこの湿り気が私にとっての救いになっていたような気がする。

 小学生の頃、熱を出した時は決まってどこかの塔の中にいる夢を見た――そこは螺旋状になった階段を人々がひたすら昇り続けるだけの空間で、終わりが見えぬまま昇り続ける人々を見下ろしながらひんやりとした石で造られた壁を子供みたいに手探りして昇っていくと等間隔で窓が開いている。汗が乾いてぱりぱりになった髪をそこから吹き込む潮風が揺らすからわたしの頭はいつも塩まみれだ。わたしの下を歩く人々は学芸会みたいな石の塊を背負っていたからたぶん労働者もしくは奴隷というようなイメージ、それを見下ろすおそらく塔の支配者なのであろうわたしにとって奴隷たちは景色でしかなく、塔の外に広がっている真っ黒な海と同じようなものだった。わたしは白い繊維をむしって窓からばらまきながら歩いた。綿菓子のようになったそれは闇の中をふわふわと漂い(わたしは夜の中を歩いていたのだ!)大きく暗い海に溶けていったのかはもうわからない。海が空の青を映しているのか空が海の青を映しているのかどちらだったろう。どちらにしてもその海の黒さとその空の黒さは同じ黒さだった。塔を昇って空に近づくことはわたしにとって海の底に沈むことと同じであり、海の底に沈んでいったわたしがいつの間にか空に浮かんでいることだってあり得ない話ではないのだ。……吐き気と眩暈で前後左右の感覚がもうほとんどなかった。自分が階段を上っているのか下っているのかも曖昧になってきてひとまずバナナを取り出す――ここでなぜバナナなのかといえばわたしはヨーグルトが嫌いだからだ。塔内部の歩行がある一点まで到達すると海は見えなくなり、わたしの視界は靄に遮られる。この塔は雲に包まれている、というよりむしろ雲を纏っているのだ。その塔の中心にはわたしがいて、わたしもある意味では塔を纏っていると言えるかもしれない。歩を進めていくうち手のひらから壁の冷たさを感じられなくなり、熱が下がっていることに気づいた。むしろわたし自身が塔なのかしれない。

 しばらく夢を見ていなかったわたしは今、塔の頂から綿のクッションのように見える雲を見下ろしている。頂はわたし一人が立てるくらいの広さで、満月の光に照らされた雲は屈めば手の届くくらいのところで煌めいていた。両手で掬ってみると甘い匂いが広がって本当に綿菓子みたいだが不思議と手はべとべとしなくて、その代わりに何やらざらざらした感触がした――塩だった。口に含んでみるとあまりにも臭くて喉の奥から吐き出した胃液は塩と混じり合いつぶつぶと不快で、それでいて冷たかった。

 ふと、わたしは雲の中にハル子を見つけた、というよりもわたしを包む彼女が雲そのものだった。わたしの目の前に現前するハル子はそこにいるのに手を伸ばしても掴めないからそこにはいない。それでもわたしは雲になって漂う、そこにはいない妹の名を呼ぼうと大きく息を吸い込むと胸が苦しくなって声が出ない。雲の中に飛び込んだわたしを水蒸気の白い膜は受け止めてはくれず、わたしは雲に飲み込まれてまっすぐに落ちていった。あなたはどうしてここにいないのか、ハル子をわたしという存在に繋ぎとめる言葉さえも出てこない。月に向かってきゃんきゃんと吠えると耳鳴りがした。わたしの乳房は月みたいに丸く膨らんでいるのに、こうしてただ吠えることしかできないから哀れな雄犬みたいだ。わたしはハル子が死んでしまうような気がして、何かを手で掴もうともがいては落ちていく。わたしを受け入れられずに雲はちぎれ、血が溢れ出す。血の赤が滲んだ雲を月明かりが照らしている。気持ち悪い、気持ち悪い。しかしわたしを照らしているのは満月などではなく天井の丸いシーリングライトなのだ。目を覚ますと熱が出ていた。また眩暈がした。