環をのがれた獣――ロベルト・ムージル「愛の完成」読解

 

 「愛の完成(Die Vollendung der Liebe)」という大仰な名前の小説がある。長大な未完の哲学的小説『特性のない男』で有名なロベルト・ムージル(1880-1942)の第二作品集『合一(Vereingungen)』(1911)の一編である。この『合一』は、前作の『寄宿生テルレスの惑乱』(1906)のまずまずの成功を受け、完成に二つの小説合わせて二年半もの歳月をかけたにも関わらず、発表当時は一般の読者どころか、批評家たちからも積極な評価は得られなかったようだ。その後第一次世界大戦が起こり、徴兵されたこともあって、ムージルはその後十年作家として沈黙することになる。無論、その事実がこの作品集に載せられた二つの中編が駄作だということをあらわしているのではまったくない。現在から見れば、その文学的価値は揺るがすことのできないものである。

 とはいえ、確かに訳者の言うように[1]、この作品がたいそう難解であることもまた間違いない。ここでは「愛の完成」を解く手がかりとして、ひとまず一つの単語「獣(Tier)」を挙げよう。Tierおよびその複数Tieretierhaft(獣じみた)、古井によって「穴居獣」と訳されているHöhlentierを含めると、数えたところではこの中篇の中には14の「獣」が登場する。ちなみに同じく『合一』の中に収められている「静かなヴェロニカの誘惑(Die Versuchung der Stillen Veronika)」には同様に30もの「獣」が登場し[2]、この作品集において、この時期のムージルにとって、「獣」がいかに重要な概念であったかが分かる。この点については流れの中でのちに触れることになるだろう。

 小説の冒頭、クラウディネは夫と仲睦まじい生活を送っているのだが、「二人して読んだ書物に出てくる病める人間」のG(「訳者の言葉」では「ドン・ジョヴァンニ風の人物」と見られている)のことを語り合っているとき、ひとつめの「獣」が登場する。

 

 そのとき、二人のどちらかが語り始めた。静かに弦を奏でるような声だった。(……)もう一人が答えた。(……)そのほかには二人はひと言もしゃべらなかった。しかしうっとりとからみあう沈黙の中で、二人の思いはいよいよ高く、遠く響き渡った。

「……この(「病める人間」の)微笑みだけが女たちのもとまで届いて、その上に漂う。血を流して息絶えていく彼女たちの苦悶の身ぶりのおぞましさから、その微笑みはなよやかな花環を(dünnstengligen Strauß[3])ひとつ編む。そして彼女たちがこの花環を感じとるだろうかと、しばらく心やさしくためらい、それから花環を捨てて決然と昇っていく。孤独の秘密の、はばたく翼に運ばれて。見慣れぬ獣のように(wie ein fremdes Tier)、神秘に満ちた空無の中へ」

このような孤独の上に、彼らは自分たちの共生の秘訣があるのを感じるのだった。(……)二人はときどき、一切のものを最後の最後まで共有することができないことで不幸を感じた。[4]

 

 この後、クラウディネは夫に彼が替えの効くような、影のような存在に思えた瞬間があったことを告白し、その時Gのことを思い出さずにいられなかったという。

 ここでは、現在の二人の幸せに見える状況が「花環」に、これから起こるクラウディネの浮気が「獣(のよう)になること」に対応していると言えるだろう。その後に彼女が娘のリリーの寄宿舎へと向かう道中でかつてのあまり幸福でなかったはずの「愛」を思い出し、それを現在の一見幸福に思える状態を引き比べ、「それがすでに覚えのある幸福であることを知った[5]」。つまり、現在の幸福とかつての「愛」の中にあった幸福に違いがなく、現在の幸福も、次の「愛」への過程の一つにすぎないように感じてしまうのである。その比喩にまた「環」が登場する。

 

(……)彼女の心にいきなり《かつて》という思いが、まるで自分は長いことそこから離れてはいたけれど、けっして遠くには行っていなかったとでもいうように、浮かんだ。(……)彼女のこうむったすべてに、冠から輝き出るような微光が蒼白くさし、そして彼女の人生に伴うあの鈍くざわめく哀しみには、顫える輝きがあった。(……)彼女はきりきりと肉に食い込む環を(einen schneidenden Reif)額に感じるように思った。夢とガラスからつくりなされた、目に見えず、うつつならぬ環を。ときには、それは彼女の頭の内で円を描くひとつの歌にすぎなかった……。[6]

 

 そして彼女は「ことによると自分はほかの男のものにもなれるのかもしれない[7]」と思い、それが「どこやら二人がもはや存在しない、二人が音楽のようでしかなくなる、誰にも聞かれず何ものにもこだまされぬ音楽にひとしくなるところで、成就する究極の結婚のよう[8]」なものに思える。

環と獣の組み合わせはありふれたものであるかもしれないが、環からの獣の開放を肯定的にとらえた思想家の代表がニーチェであることに異論はないだろう[9]。同年代の他多くの文学者と同じくムージルもまた、若き日にニーチェのテキストに触れ、日記には、「きょう、フランツェスムゼーウムから大冊二巻のニーチェを借りる。無意識のうちに神聖な気分になる。なぜなら、かつてぼくはいかに畏敬の念をもって彼を読んだことだろう!/彼はこんどはどんなふうにぼくに作用するだろう?!」と記している[10]。そのようなニーチェの強い影響をここに見るのならば、獣になることに解放感が伴うのも納得できるだろう。さらに付け加えておくと、ここで問題になっているのは「獣の心」になることであり、その「獣」というのは、ダーウィン主義的な、人間と直線的につながっている獣であると定義できる。汽車の旅の途中で、彼女が《かつて》の自分の恋愛を回想していたのを思い出していただきたい。そうした時間の逆行と、汽車の走行が重ね合わされ、彼女は「獣」の位置(station)へと至るのである。

 そして、毛皮の外套を着た男(のちに参事官と分かる)と、ともに馬橇に乗り、「汗をかいた獣の(dampfenden Tiere[11]」臭いに包まれることで、彼と新たな「愛」をつくることになる。以下はその目覚めの場面である。

 

それから、夜中になって、彼女は目を覚ました。まるで呼鈴を鳴らされたように。彼女は突然、雪が降っているのを感じた。窓のほうへ目をやると、柔らかく、重く、壁のように、窓は宙にかかっていた。彼女は素足のまま、爪先立ちで窓辺に忍び寄った。何もかもすばやくあいついでおこなわれた。自分が獣のように(wie ein Tier)素足を床におろしたのがぼんやりと見えた。それから降りしきる雪片の格子を、すぐ近くからうつろにのぞきこんだ。(……)そしてふいに何かが心に浮かんだ。あのことさらに強めた口調が。われわれはここで雪に降りこめられることになりそうですな、と言ったあの男の。[12] 

 

  こうして、彼女は「獣のように」なったわけであるが、これ以降も、クラウディネと、彼女がいる環境に「獣」は登場する。彼女は「自分の思いの、用心深く前へ伸びていく獣じみた歩みを(tierhaften Schritt[13]」感じ、自分の心臓の鼓動を「どこかからものに驚いて迷いこんできた獣を胸に抱き取る心地で(als trüge sie ein Tier in der Brust[14]」感じ、翌日、午前の寄宿舎においては、「巨鈍な穴居獣の臭いのように(wie Witterung riesiger, plumper Höhlentiere)、男たちのまわりをそこはかとなく流れるものの正体は、薄明かりの中でどぎつくなった面相の、鈍くて凡庸なままにその醜悪さによってほとんど不可解なまでに誇張された印象だと[15]」見てとり、そういった人々の中にいて「彼女の生活には少しも縁のない、見なれぬ生き物が、彼女の前に大きく、すがりつきおおいかぶさり、毛むくじゃらの獣の(auströmendes Tier)、気の遠くなる臭いを吹きかけるように立ちはだかった[16]」様を思い浮かべる。そして、「《あたしたちは、あたしたちのような人間は、ことによるとこんな人間たちとも暮らせるかもしれない……》[17]」と心ひそかに思うのである。参事官のことを再び思い浮かべた時、彼女は「獣姦(Sodamie)」という言葉を思い浮かべ、このように独白する。

 

《あなたが現実の中で思い知るよう、あたしは、あたしはこの獣に(unter diesem Tier)身をゆだねる。この想像もつかぬことを思い知るように、現実の中ではもう二度とあたしのことを固く単純には信じられなくなるように。あなたがあたしを手ばなすないなや、あたしがあなたにとって幻影のようにつかみがたい、とりとめようのないものになってしまうように。(……)》[18]

 

 ここで、クラウディネは、夫をそう感じたような影のような存在=幻影に、自分もまたなることを目指す。それは、つまり、彼女が感じている夫のような、代替可能な存在になることである。それが「獣」になることなのだ。彼女は参事官と教会の前までやってきたとき、「感覚の世界」を感じ、「この男が彼女に求めている、見かけでは何よりも烈しいはずの行為も、じつはまったく没個人的なものだと」思えてくる。「まわりにはさまざまな音が宙に立ち、空には雲が静かに浮かんで、それぞれおのれの場所と瞬間に耽りこんでいる。彼女ももはやそのような雲、そのような音、ただ渡り行くもの、鳴り響くものにほかならない……獣たちの恋を(die Liebe der Tiere)彼女は理解したと思った。」[19]この「獣たちの恋」とは、もはや自我のないような恋であるようである。それはいったいどういった恋なのか。それを理解するには再びムージルの伝記的事実に触れなくてはならない。

 彼は、先に名をあげた『寄宿生テルレスの惑乱』を書き終えた3年後、ベルリン大学において『マッハ学説の判定への寄与』という論文で博士号を獲得している[20]。彼が論文の題材に選んだエルンスト・マッハの思想は「感覚要素一元論」と呼ばれた。ここではその詳しい説明は省くが[21]、彼の理論にとってその自我は「救いがたい」ものとして規定されている。

 

第一次的なもの〔根源的なもの〕は、自我ではなく、諸要素(感覚)である。(……)諸要素が自我をかたちづくる。私〔自我〕が緑を感覚する、ということは要素緑が他の諸要素(感覚、記憶)のある複合体のうちに現れるということの謂いである。私が緑を感覚するのをやめたり、私が死んだりすると、諸要素はもはや従前通りの結合関係(ゲゼルシャフト)においては現れない。それだけの話である。観念的・思惟経済的な、実在的でない統一〔単位〕(アインハイト)が存在しなくなったというだけのことである。【省略のみ五十嵐】[22]

 

 こうしたことの発見を、クラウディネもまたしたのだと考えていいだろう。超越論的なものを「要素」ととらえることにより、理性というものがまったく絶対的でない、単なるひとつの単位、函数でしかなくなって、頽落し、それと悟性が横並びになった時、すなわち人間と獣の区別がなくなった時、愛(Liebe)なるものは、「任意の感覚がぴったり合一すること」というようにしか言えなくなる。二人になす角度などあっては、愛は完成していないことになるのだ[23]

 物語に戻ろう。しかし、獣は、ニーチェによれば、「飢えと性的欲求をかかえて生き、しかもこの人生の意味することが理解できない」。そのようなありように彼女は耐えきれず、ここを絶頂としてクラウディネの「愛の完成」への意欲は冷えて行き、ついに「花環」の元へと返ることを欲するようになる。それが、よく引用される次の箇所である。長くなるがご容赦いただきたい。

 

そのとき、敷物の上に身を投げだしたいという欲望が彼女をとらえた。身を投げだして、大勢がのこした気色の悪い足跡に接吻したい、その臭いを嗅いで牝犬のように欲情したいと。しかしそれは官能ではなくてもはや、風のように吠えるもの、子のように泣き叫ぶものでしかなかった。彼女はいきなり床に両膝をついた。敷物の硬い花模様がからみあって(die steifen Blumen des Teppichs rankten sich[24])目の前にいっそう大きく、わけのわからぬ表情でせまり、自身の重い女臭い太股が、何かまったく無意味な、しかもまったく不可解なほど張りつめたもののように、花模様の上へ醜くかがみこんでいるのが見えた。両手は床でそれぞれ五肢の動物のように(wie zwei fünffach gegliederte Tiere)睨みあっていた。麦の廊下のランプが、こわいほどに黙りこんで天井をさまよう光の環とともに(mit ihren grauenhaft stumm an der Decke wandernden Ringen)、ふと浮かんだ。壁が、寒々とした壁が、ひとけない空間が、またしても男の姿が。そこに立って、ときおり身じろぎをしている。木が樹皮をきしませるように。切迫した血をうっそうと茂る葉簇のように頭の内に騒がせて。そして同時に、たった扉一枚を隔てて、彼女はここに這いつくばり、それでもどのようにしてか、自分の熟れた肉体の、ふくよかな甘みを感じとっていた。ひどい傷を負いながらも、つぎつぎに破れ出るおのれの醜い変相のかたわらにみじろぎもせずに立つ、あの失われぬ魂の残余でもって、せつなくもたえず眺めることへ支えあげられ、仆れた獣のかたわらにあるように(wie neben einem gefallenen Tier)。[25]

 

 彼女が獣(牝犬)のようになろうとしても、自我の不在から、その欲望は風の音や子供のすすり泣きのようなただひたすらなものでしかありえなくなる。この場面においてその代わりに起こったことを分類し、それぞれが始まった順で並べると以下のようになる。

  • 花環モチーフの再登場(「からみあう花」、「光の環」)
  • クラウディネの身体の女らしさの確認(太股から全身へ)
  • 「獣」の外部化(手から身体のかたわらへ)
  • 男(参事官)の登場

 ②における「女らしさ」とは、①の環のなかにおさまるための「丸み」である。それと同時に、「獣」は明らかに彼女の身体へと移行している。ここで肉体と精神に彼女が分離し、その肉体の方に「獣」が割り振られたことは明らかである。ここで、獣は心から体へと移る。Duden独独辞典によれば、Tierとは、「感覚器官及び呼吸器官をもつ、他の動物性有機体、または植物性有機体から栄養を得る、習慣的には論理的思考と会話の能力を持たない自由に動くことのできる生物」の意であるが[26]、この「論理的精神と会話の能力」がクラウディネの人間の部分をつくったということだ。次に「獣」の登場する箇所は、まるでこの事態を表したアフォリズムのように響く。

 

彼女はいきなりなにやらきわめて遠い、きわめて抽象的なことを思った。それでも肉体は彼女をつつんで、森の中で追われる獣のようにおののいた。[27]sie dachte plötzlich irgend etwas sehr Fernes, sehr Abstraktes und ihr Körper zitterte dabei um sie wie ein Tier, das in einem Wald verfolgt wird

 

 クラウディネはその夜参事官とは結局交わらなかったが、翌朝苔の環(Kranz[28])のことを思い、「まるで何もかもが金属に刻みこまれ、いまだに鏨の力を受けて顫えているかに」感じる。そして参事官に見られながら、「彼女の内では何かが整然とつらなり、輪を描く一羽の鳥の(eines kreisenden Vogels)眼下に野良また野良が並ぶように、明るくはるばると横たわった。」[29]このあまりにもニーチェ的な一節が、それにもかかわらずクラウディネが単に超人になったことを表すのではないことは、これまでの読解から分かっていただけると思う。これはここに登場する三つの環のうちの一つでしかなく、むしろ、万物が巡る永劫回帰の認識からクラウディネは逃れ出でるのである。その人ではなくその現象を愛するのだという抗弁も虚しく[30]、獣的だと思われた参事官の裏切り(「この男がわが身にたいしてどんなにこまやかな情愛をいだいているか[31]」)により、直線的な死を思う。それは「獣」も「花環」も「私」も変わってしまうことを意味もなくしゃべりだしたあと、彼女はすべてのもの、すなわち世界(Welt)の死を、それにもかかわらずマッハ的な死を思うのである。

 

「……狭い峠道を越えていくときに似てるわ。獣も、人間も、花も、何もかも変ってしまう(Tiere, Menschen, Blumen, alles verändert)。(……)でも、あたしはいよいよ色あせていくのでしょうね。人間は死んでいく、いいえ、しぼんでいくのでしょうね、樹木も鳥も獣たちも(die Menschen würden sterben, nein, einschrumpfen; und die Bäume und die Tiere)。そして最後には何もかもひとすじのほのかな煙にすぎなくなる……それからたったひとふしの調べに……宙を流れて……虚無の上を流れて……」[32]

 

 クラウディネにとって、死ぬことは消滅することではない。単位、函数をなくし、極限まで分解されることだ。『存在と時間』をいくらか先取りするように、死ぬことに開かれることによって彼女は「あたし」、「あなた」といった単位、函数を受け入れ、参事官をようやく「あなた(Du)」と呼ぶが、同時に「こうしてすべての人間たちのためにであって、それでいて、ひたすら一人のためのようにあることもできるのだ」という感覚を思い出す[33]。マッハ的な世界観、「獣の心」は死の向こう側へと追いやられ、「そしてはるか遠くに、子供たちが神のことを思って、神様は大きいんだと言うように、彼女は自分の愛の姿を思い浮かべた。」[34]と、小説は閉じられる。

 この何か宗教的な結末は、マッハの感覚要素一元論と日常的な世界観の妥協点であるように見える。自らの存在を相対化することをクラウディネはやめ、しかしその可能性を彼岸へ求めるのである。獣の問題を超越して、彼女は身体さえも無くなったさまを想像する。そこに至っては、クラウディネも夫も参事官ももはや問題ではなくなる。一番初めの『ほんとうにいっしょに来てくださらないの、あなた[35]Kannst du wirklich nicht mitfahren?)』という問いも無効になる。そこではすべてがいっしょに流れているのだから。このような結末にはまた、この作品が書かれた当時たいへん流行していた神智学的なグノーシス主義の影も見て取ることが出来ようが、それに詳しく立ち入ることはまた別の機会としなくてはならない。ともかくこれで、「愛の完成」とは何の謂いか、という問いに、我々は「合一を死の向こうに思いやることだ」と答えることができるようになったわけである。

 

 

[1] 「訳者の言葉」(ムージル作 古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』p175-186)p175

[2] ただしそれは「完成」に比べてより明白に出ており、発表当時の『ハンブルク報知新聞』のTh・Hによるごく浅薄な批評においてすら指摘されているほどである。(コリーノ著 早坂他訳『ムージル 伝記1』p475-476) 

[3] 原文からの直訳だと「薄い茎を持つ植物の花束」だが、それを「編む(flicht)」と言っているので花環のことだと判断できる。

[4] 古井訳p13

[5] Ibid.p22

[6] Ibid.p22-23

[7] Ibid.p29

[8] Ibid.p29

[9] 「[ニーチェによって]動物性はもはや、たんなる官能性や人間における低俗なものとして考えられているのではない。動物性とは、身体を具えた、すなわちやむにやまれぬ衝動に満ち、すべてを圧倒しつつ促迫する身体なのである。」(ハイデガーニーチェ Ⅲ』p46)詳しくはフォントネ『動物たちの沈黙』第一六部第二章を参照。

[10] 圓子訳『ムージル日記』p27

[11] 該当箇所からの拙訳。古井はおそらく文脈を考慮して「濛々と息を吐く馬たちの」と訳している。(古井訳p37)

[12] 古井訳p44

[13] Ibid.p46

[14] Ibid.p47

[15] Ibid.p56

[16] Ibid.p59

[17] Ibid.p59

[18] Ibid.p64

[19] Ibid.p69-70

[20] 詳しくはコリーノ(2009)第11章及び早坂七緒「マッハの科学哲学とムージル」(鎌田道生編『ムージル 思惟する感覚』p87-137)を参照。

[21] マッハの思想とそれがのちの世代に及ぼした影響については木田元『マッハとニーチェ』(講談社学術文庫 2014)を参照。

[22] マッハ著『感覚の分析』p19

[23] 古井訳p8参照

[24] 直訳だと「敷物の硬い花たちがつるを巻きながら伸びていって」となる

[25] 古井訳p85-86

[26] http://www.duden.de/rechtschreibung/Tier(2016年1月27日閲覧)。拙訳。

[27] 古井訳p94

[28] 直訳だと「花環」

[29] 古井訳p91

[30] Ibid.p94、「(……)あたしが思うには、ある人が好きだから好きだというほうがよっぽど奇妙なことですわ。その人の目が、その人の舌が好きだから、その人の言葉ではなくて、その声の響きが……」

[31] Ibid.p93

[32] Ibid.p96

[33] Ibid.p97

[34] Ibid.p97

[35] Ibid.p7

 

参考文献

鎌田道生編『ムージル 思惟する感覚』(鳥影社 1995)

木田元『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』(講談社文芸文庫 2014)

コリーノ、カール著 早坂七緒/北島玲子/赤司英一郎/堀田真紀子/渡辺幸子訳

ムージル伝記.1』(法政大学出版局 2009)

ハイデガー、マルティン著 薗田宗人訳『ニーチェ Ⅲ』(白水社 1977)

フォントネ、エリザベート・ド著 石田和男・小幡谷友・早川文敏訳

『動物たちの沈黙』(彩流社 2008)

マッハ、エルンスト著 須藤吾之助/広松渉訳『感覚の分析』(法政大学出版局 1971)

ムージル作 古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫 1987)

ムージル、ローベルト著 圓子修平訳『ムージル日記』(法政大学出版局 2001)

渡邊二郎/西尾幹二

ニーチェを知る事典――その深淵と多面的世界』(ちくま学芸文庫 2013)